今日は何の日

2012年10月 7日 (日)

ニールス・ボーアの生誕127周年

 10月7日のGoogleロゴはデンマークの物理学者、ニールス・ボーアの生誕127周年を祝う画像となりました。

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 ニールス・ボーアは1885年、コペンハーゲンで生まれました。1903年にコペンハーゲン大学へ入学したのち、1911年にはイギリスへ留学し、トムソンやラザフォードのもとで原子の構造について研究を行っていました。

Niels_bohr

 1913年、ラザフォードの原子モデルの矛盾について考えていた彼は、スイスの物理学教師ヨハン・ヤコブ・バルマーが1885年に発表した水素の原子のスペクトルに関する論文に注目しました。

 ボーアはバルマーの論文を読んだ瞬間に水素原子がどのような構造をしているのか直ちにひらめきました。そして、わずか半年ほどで「原子と分子の構造について」という論文を発表し、ボーアの原子モデルを提唱しました。

 ボーアの原子モデルは、原子の構造の説明に量子の概念が導入したものです。マックス・プランクのエネルギー量子仮説から十余年、ボーアの功績によって、いよいよ量子論が本格的に論じられるようになりました。

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2012年6月 8日 (金)

日本最古の月食の記録

 月食は遙か太古の昔からあった現象ですが、日本最古の月食の記録は日本書記に書かれているものです。

 その最も古い記録には、「月有蝕之-皇極二年庚戌朔乙丑」とあります。皇極二年庚戌朔乙丑は皇極天皇2年5月16日で643年6月8日です。

 計算によると、この月食は月が沈んだ後に起きたようですから、実際に観測できたわけではなかったようです。暦算による記録と考えられています。

 それでは、実際に観測できたであろう月食の日本最古の記録がいつだったというと、「月蝕一天武九年十一月丁亥」。これは天武天皇九9年11月16日、つまり680年12月12日です。このときの月食は部分月食だったようです。

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2012年5月28日 (月)

古代ギリシャの哲学者タレスが予言した皆既日食

 古代ギリシャの都市ハリカルナッソスの歴史家ヘロドトスの「ヒストリア(歴史)」という著書に、紀元前6世紀に行われた戦争中に、昼が夜に変わり、双方の兵士たちが戦いをやめ、和平を急ぐ気持ちになったということが記されています。これは紀元前585年5月28日に起きた皆既日食のことと考えられています。

 同書によると、この日食は古代ギリシャのイオニア地方で発祥したミレトス学派の始祖であるタレスが予言していたようです。もちろん、タレスの予言は現在のように○月○日○時○分のような予言ではありませんでした。ヘロドトスのヒストリアから伺えるのは、タレスの日食の予言は年単位であっただろうということです。

 もちろん、タレスが日食が生じる詳しい仕組みや計算方法を知っていたわけではありません。しかし、古代から天球上での太陽と月の動きは知られていて、太陽と月が重なる時期については、ある程度の予想ができていたと考えられます。

 タレスが活躍していた当時、ミレトスは地中海交易の拠点であり、様々な国から多くの人々が訪れ、異文化交流が進みました。それによって、これまでそれぞれの地域の人々が信じていた神学的な世界観や価値観は、崩れ始め、多様化し、混乱しました。そのような中で、世界の仕組みや、身の回りの自然現象などについて、普遍的な真理の追求が行われるようになり、これが哲学となりました。その哲学の祖となったのがタレスです。

 おそらく、この異文化交流によって、タレスはさまざまな情報を入手したのだろうと思います。その中には、日食に関する記録もあったのではないかと思います。

 もし、タレスがたくさんの日食の記録が入手でき、その周期性に気がつけば、日食が起きる時期をおおまかに予言することは難しいことではなかったでしょう。

 タレスは紀元前585年5月28日に日食が起きると予想したわけではありませんから、当時の人々の認識は今年中に日食が起きるという予言があるという程度だったでしょう。多くの人がその予言を信じていたかどうかはわかりません。

 しかし、5月28日に行われた戦争中にその予言が見事的中したのです。しかも、日食は部分日食ではなく、皆既日食でした。あたりが暗くなり、昼が夜に変わったことにより、兵士たちは驚いたと思います。彼らは浮き足立ち、そして早く元通りの世界に戻ってくれと、和平を願ったのでしょう。

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2012年4月18日 (水)

学校で学んだことを一切忘れてしまった時になお残っているもの、それこそ教育だ by アインシュタイン

 4月18日はアインシュタインの命日です。アインシュタインは教育について下記のようなことを言っています。

 学校で学んだことを一切忘れてしまった時になお残っているもの、それこそ教育だ

 そもそも学校で勉強したことをすべて覚えている人はそうはいません。なお残ったものが教育というのは、ものごとに対する基本的な考え方なのでしょう。また、勉強した内容を忘れてしまっても、調べ方を覚えていけば疑問の答えにたどりつくことができます。

 そしてもうひとつ残るのは、友だちと学校の先生の思い出ででしょう。卒業してから一度も会っていなくても、あの学年ではこんな先生がいた、あんな友だちがいたという記憶はいつまでも残っています。もちろん、忘れてしまった人もたくさんいますが、記憶に残っているということは自分の人生に何らかの刺激をあたえてくれた人だと思います。

 いろいろと教育改革が進んできましたが、本当に教育を「最後に残るもの」にすることができているでしょうか。

 アインシュタインはある取材で、記者に光速度を聞かれて、答えることができなかったことがあるそうです。そのとき、記者はアインシュタインが光速度を覚えていないと揶揄したそうですが、アインシュタインは「本やノートに書いてあることをどうして憶えておかなければならない?」と答えたそうです。

 そういえばインディー・ジョーンズの最後の聖戦で、インディが親父を連れてサイドカーで逃げる途中、親父がインディに「聖杯のある場所に仕掛けられた3つの罠のことが古文書に書いてあった」と話します。インディは「古文書には何と書いてあった?」と聞きますが、親父の答えは「覚えてない」。あきれた顔をするインディに向かって、親父は「覚えないで済むから手帳に書いた」と言います。その手帳はナチスにとられてしまっていたわけです。2人は手帳を取り戻しに、わざわざナチスの中心であるベルリンに向かいます。このシーンはもしかするとアインシュタインの上述の言葉を意識してたのかなと思ってしまいます。

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2012年4月 9日 (月)

エドワード・マイブリッジ生まれる 活動写真の発明  

 4月9日はエドワード・マイブリッジの誕生日です。Googleのロゴがエドワード・マイブリッジ生誕182周年を祝い、競走馬の連続写真になっています。

0409

250pxmuybridge2 マイブリッジは1830年にイギリスで生まれ、1855年にアメリカに移住し、サンフランシスコで出版関係の仕事をするようになりました。

 1872年、スタンフォード大学の創設者でカリフォルニア州知事を務めたリーランド・スタンフォードは、馬が走っているときに、4本の脚の全てが地面から離れる瞬間があるのかどうかを友人と賭けをしていました。スタンフォードはその事実を確認するためマイブリッジに写真の撮影を頼みました。

 当時、一般に使われていた写真の感光剤は露出に時間がかかったため、疾走する馬の写真を撮影するのは困難極まりないものでしたが、マイブリッジは5年間の歳月をかけて、感光剤の開発に取り組み、瞬間の写真を撮影することができる装置を作成し、1877年に馬の4本全ての脚が地面から離れ空中にある決定的瞬間を捉えることに成功しました。

 1878年、マイブリッジはこの装置を12台並べて、疾走する馬の連続写真を撮影しました。彼はその連続写真をゾエロープ(回転のぞき絵)にかけて、馬が走る様子をアニメーションのように見せ、その後、幻灯機を使って、動く馬をガラス板に投影させるゾープラクシスコープを作りました。

Race Horse First Film Ever 1878 Eadweard Muybridge

 この連続写真はトーマス・エジソンに大きな影響を与え、エジソンは1891年に映写機キネトスコープを発明します。キネトスコープは箱の中をのぞき込み、動画を見るタイプのものでした。

 1895年、フランスのオーギュスト・リュミエール、ルイ・リュミエールのリュミエール兄弟が動画をスクリーンに映し出すことができるシネマトグラフを発明し、現在私たちが見るのと同じ仕組みの映画が生まれました。

Cinematographe Lumière. Museu del Cinema

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2012年4月 1日 (日)

重力に引かれて落下する光を地球上の空間で発見

 ボールを投げると放物線状に落下するように、私たちに身の回りに存在する質量をもつ物体は地球の重力に引かれて落下します。

 アインシュタインは自身が唱えた相対性理論で、エネルギーと質量は等価であり、相互に交換可能であると説明しました。エネルギーと質量が等価であるならば、エネルギーをもっている光も重力に引かれて落下するのではないでしょうか。

 アインシュタインは自ら導き出した結果から、光も重力の影響を受けて曲がると考えました。彼は大きな重力が働いているとろころでは空間が歪むため、光の道筋も曲がると考えました。光は歪んだ空間の中を直進するが、空間が曲がっているのだから、外から見ると光が曲がって進んでいるように見えると説明したのです。

Light

 この現象は大きな天体のまわりなどの強い重力が働いている空間でしか確認することができないとされていましたが、本紙「光と色と」の専属記者が4月1日未明に地球上の空間で重力に引かれて落下する光を発見しました。

 本紙の専属記者によると、光は樹木の枝から無限にわき出るように生じ、その光が重力に引かれて確かに落下しているとのこと。あわてて携帯電話のカメラで動画を撮影したと証言しています。

これがその時に撮影した映像です。携帯電話のカメラなので、解像度が低いのですが、確かに光が落下しています。

重力に引かれて落下する光

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2012年2月22日 (水)

ハインリヒ・ヘルツ生まれる

Hertz2011hp

 ドイツの物理学者ハインリヒ・ルドルフ・ヘルツ(Heinrich Rudolf Hertz)は1857年2月22日にハンブルグで生まれました。

Heinrich_hertz 1881年にアルバート・マイケルソンが干渉計の試作品を使った実験で、それまで光を伝える媒質とされたエーテルが見つからないという結果を出しました。

 この結果は干渉計の誤差があり、確実なものではありませんでしたが、この結果を見たヘルツは、光が空間を伝わる仕組みを解明するため、マクスウェルの方程式に関する研究を始めました。

 1887年、彼は、電磁波の発信機と受信機を作り、電磁波を実際に発生させて、検出する実験を行いました。

 彼はまず検出器の開発を行いました。彼が作った検出器は狭い隙間が空いた針金の輪でした。電磁波を検出すると、電磁波と共鳴して振動電流が生じ、火花が生じる仕組みになっていました。

 彼は続いて電磁波の発信機の開発を行いました。検出器とうまく共鳴する波長の電磁波を発生する装置を作るのに手間取りましたが、試行錯誤の結果、ついに検出器が火花を出す電磁波を放つ発信機を完成させました。

 彼は、この実験で、電磁波の存在を確認し、電磁波が屈折、反射などの現象を生じることを確かめました。まや、電磁波の速さが光速に等しいことも確かめました。彼は、マクスウェルが予言した電磁波が実際に存在することが確かめ、マクスウェルの電磁波理論を実証したのです。

 彼はこの実験の中で、電極に紫外線を当てると、電極から出てくる電磁波が強くなることを見いだしています。彼は光電効果の発見をしていたいのです。

 さて、彼の実験は無線通信の幕開けを告げるものでしたが、彼はこの実験結果について、自分はマクスウェルが予言した電磁波の存在を確かめただけであり、この実験結果は世の中の役に立たないであろうと考えたようで、それ以上の研究は行いませんでした。

 彼は1892年に体調を崩し、1894年に36歳の若さで他界しました。ヘルツの業績が特に認められるようになったのは20世紀になってからです。周波数の単位がヘルツ[Hz]と定められたのは1930年のことでした。もし彼が生きていれば73歳でした。もし、彼が生きていたら、きっとノーベル賞を取っていたことでしょう。

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2012年2月 9日 (木)

ハレー彗星が近日点を通過(1986/02/09)

ハレー彗星はおよそ76年の周期で地球のそばにやってきます。地球などの惑星の周期軌道は円に近い形ですが、多くの彗星の周期軌道は細長い楕円形です。ハレー彗星の軌道は、太陽のそばから、海王星の向こう側までのびた細長い楕円形をしています。

Halley's Comet Orbital Path

 ハレー彗星の核は直径約10Kmのいびつな形をしています。核は岩と塵からできていて、そのまわりを氷が覆っています。ハレー彗星が太陽に近づいてくると、熱で氷が気体となり核のまわりが球形に光り輝きます(この輝いた部分をコマといいます)。また、彗星の核から放出された物質が光輝いて尾を引いたように見えます。

Lspn_comet_halley

Comet P/Halley as taken March 8, 1986 by W. Liller, Easter Island, part of the International Halley Watch (IHW) Large Scale Phenomena Network. 
http://nssdc.gsfc.nasa.gov/photo_gallery/photogallery-comets.html

Edmund_halley イギリスの天文学エドモンド・ハリーは1700年の始めに彗星が楕円軌道をしていることに気がつき、ニュートンの運動の法則に基づいて計算を行い、ハレー彗星が1758年か1759年に地球に接近することを予測しました。彼が予測した通り、ハレー彗星は1758年の暮れに地球のそばにやってきました。そのため、彗星の名前がハレー彗星と名付けられました。

 ハレー彗星の観測でもっとも古い記録は紀元前240年のもので、中国の秦の始皇帝が「ほうき星」を見たと伝えられています。紀元前240年以来、これまで地球に30回接近しています。前回、ハレー彗星がやってきたのは1986年です。1986年の接近では、2月9日に近日点を通過しました。近日点というのは、惑星などが太陽にもっとも近づく点のことです。ハレー彗星の近日点は約1.5億Kmです。次にハレー彗星がやってくるのは2062年です。

 次の影像は松下電器が1982年に流していたハレー彗星を題材にしたテレビのコマーシャルです。短い時間の中でハレー彗星についてしっかりと説明する内容にまとめられています。

ナショナルテレビ αデジタル CM 「お帰りなさい、ハレー彗星」 1982年

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2010年1月 4日 (月)

アイザック・ニュートンの誕生日(1643/01/04)

今日はイギリスの物理学者アイザック・ニュートンの誕生日です。ニュートンは1643年1月4日に生まれました。

Googleのロゴがリンゴの木になっていました。Googleのサイト上ではリンゴが木から落ちるアニメが表示されます(2010年)。

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さて、ニュートンとリンゴの木というと「ニュートンはリンゴが木から落ちるのを見て万有引力に気がついた」という有名な逸話があります。

ニュートンはリンゴが木から落ちるのを見るまで万有引力に気がつかなかったのか!ということになりますが、リンゴが木から落ちるのを見て気がつくのは重力であり、重力については、ニュートン以前のもっと古い時代から知られていたことです。この話はそもそも「リンゴが木から落ちるのを見て」と、これだけで終わる話ではありません。

ニュートンが万有引力について考えるきっかけになったのは、ヨハネス・ケプラーが1619年に発表した惑星の運動に関する法則です。

ニュートンは惑星の運動と、木から落ちるリンゴに働く「力」が同じものであると考え、その「力」のことを万有引力と名付けました。

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